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佐藤学 (教育学者) : ミニ英和和英辞書
佐藤学 (教育学者)[さとう まなぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [がく]
 【名詞】 1. learning 2. scholarship 3. erudition 4. knowledge 
教育 : [きょういく]
  1. (n,adj-no,vs) training 2. education 
教育学 : [きょういくがく]
 【名詞】 1. pedagogy 2. pedagogics
学者 : [がくしゃ]
 【名詞】 1. scholar 
: [もの]
 【名詞】 1. person 

佐藤学 (教育学者) : ウィキペディア日本語版
佐藤学 (教育学者)[さとう まなぶ]

佐藤 学(さとう まなぶ、1951年 - )は日本教育学者学習院大学教授東京大学名誉教授。「安全保障関連法案に反対する学者の会」発起人〔安全保障関連法案に反対する学者の会 〕。
== 経歴 ==

*広島県生まれ。広島大学教育学部附属福山高校卒業。
*1975年:東京教育大学教育学部教育学科卒業。
*1980年:東京大学大学院教育学研究科修了(教育学博士 学位取得は1989年)。
*1980年:三重大学教育学部助手
*1981年:同講師
*1984年:同助教授
*1988年:東京大学大学院教育学研究科助教授
*1997年:同教授
*2004年:同研究科長・東京大学教育学部学部長
*放送大学客員教授コレヒオ招聘教授、ハーバード大学客員教授、ニューヨーク大学客員教授、ベルリン自由大学招聘教授 を歴任。
*2012年:東京大学大学院教育学研究科教授を退職。同名誉教授。
*2012年:学習院大学文学部教職課程教授
*2013年:学習院大学文学部教育学科教授就任。
アメリカの進歩主義教育における単元学習の歴史や日本の学校カリキュラム改革の研究、「学び」の研究、教師の同僚性の研究などを専攻。
1980年代に稲垣忠彦との協同で授業研究と教師研究を展開する。1990年代には佐伯胖とともに、「学び」ということばを教育研究や教育論に導入することを提唱する。佐藤において「学び」とは、モノ(対象世界)との出会いと対話による「活動(action)」、他者との出会いと対話による「協同(collaboration)」、自分自身との出会いと対話による「反省(reflection)」が三位一体となって遂行される「意味と関係の編み直し(re-contextualization)」の永続的な過程として定義されている。
また、「学び」を核とした学校改革の理念として「学びの共同体」を提唱する。佐藤において、「学びの共同体」は、学校の使命と責任と教室の公開を要請する「公共哲学」、多様な人々がともに生きる生き方としての「民主主義の哲学」、授業も学びも絶えず最上のものを追求する「卓越性の哲学」の三つの哲学を根本として定義されている。具体的な方法としては、授業改革、授業検討会、保護者や市民の学習参加の三つを、上記の「学び」の定義に従って展開することを提案している。
佐藤の主張する「学び」と「学びの共同体」は、デューイの思想に基づいた公共性と共和制民主主義の理論、ヴィゴツキーの思想に基づいた社会的構成主義の学習論、ネル・ノディングズの「ケアリング」から示唆を得た受容的対話の概念を主な背景としている。一方で、合理的主体を想定した積極的リベラリズムには批判的である。こうした彼の理論に対しては、2000年代初頭において、アナーキズム的なリベラリズムを主張していた宮台真司などから批判が寄せられた。
2000年台前半の教育基本法改正論議に際しては、改正反対運動を主導した。ただし、同時に、「「改悪反対」を叫ぶだけでよいのか」と問いかけ、改正案が上程されたならば教育基本法廃止を唱えるべきだ、とも発言している。その理由として、日本国憲法教育基本法の制定が、アメリカ帝国主義の下で象徴天皇制を確立し、昭和天皇の戦争責任を免責して天皇制を擁護するというマッカーサーの占領政策方針の下で行われたこと、教育基本法の制定が戦前の天皇の「教育大権」を基礎として構想された「教権の独立」を狙ったものであり、理念についても教育勅語との連続性を排することができないこと、さらに、教育基本法の改正案が、日本国憲法との対応を切断し、教育勅語以上の徳目で国家が心を管理する法律として準備されていること、を挙げている。その上で、改正反対運動を主導して教育基本法を擁護するのは、その制定から10年以上経った後から始まった「教育基本法の民主的価値」を勝ち取ろうとする運動の歴史を擁護するからである、と述べている〔佐藤学「教育基本法の歴史的意味 ―戦前と戦後の連続性―」『世界』2004年1月号、222-225頁〕。
世界』1997年5月号に掲載された「自由主義史観」を批判する座談会の冒頭において、「自由主義史観」台頭の要因として、「日本人を煽り立てていたの経済的な威信が崩れた危機感」と「頭の中を組み替えてしまえばすべてがくつがえるという気分の蔓延」の2点を指摘し、それに対応するキーワードとして「ポスト・バブル」と「ポスト・オウム」を提示した〔「座談会:対話の回路を閉ざした歴史観をどう克服するか?」『世界』1997年5月号、186頁〕。その際、「藤岡氏の個人史はそれを象徴的に示している」と藤岡信勝に言及し、藤岡の個人史と日本の経済的威信の挫折とを重ね合わせて論じることで、彼の「自由主義史観」への傾倒の背景を解説した。その言及の冒頭で、「彼は1943年北海道の小さな町で、信勝(のぶかつ)という名前を受けて生まれた」、「「大東亜戦争」肯定論が名前に刻まれていて、彼の父は「ソ連は卑劣な国である」といつも語っていたと言いますから、彼はそのことでかなり内面の葛藤があったと思います」と発言する〔藤岡の父の発言については、藤岡自身も語っている。藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、147頁〕。この発言は、「自由主義史観」の支持者および藤岡本人からの激しい反発を招いた。まず、自由主義史観研究会会員で会社員の大越哲仁が、「「勝」という名前が戦争肯定を意味するなら、代表的岩波&朝日文化人の本多勝一氏は、昭和7年生まれだから、「支那事変肯定論」が名前に刻まれて生まれた、戦争好きの人物となる」と批判した〔大越哲仁「『世界』三月号 吉見義明論文批判:「国際法違反」論の錯誤を衝く」『社会科教育 第444号別冊 近現代史の授業改革 第7号:「慰安婦」を授業で扱う必要はあるか』明治図書、1997年8月、50頁〕。藤岡本人は、「「大東亜戦争」肯定論が名前に刻まれているとは、誠に驚きである」、「人の名前まであげつらって個人攻撃をする」、「まさに常軌を逸している」、「「信勝」という名前の私は、「軍国主義者」になるべく運命づけられており、他方、「学」という名前の佐藤氏は「学者」になるように生まれている、と氏は内心言いたいのであろう」、「夜郎自大オカルト趣味のまことにグロテスクな結合である」と激怒した〔藤岡信勝「アメリカ大新聞の傲慢無礼」『正論』1997年8月号、62頁〕。さらに、千葉大学教授の秦郁彦も、「それにしても、わが国では人の名前や顔をあげつらうのは忌むべきことと教育されてきたのにとの思いは去らないが」と言及している〔秦郁彦「政治のオモチャにされる歴史認識」『諸君!』1997年9月号、42-43頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐藤学 (教育学者)」の詳細全文を読む




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